人は平等ではない 命もまた然り 【哲学】

より強く
人より先へ より上へ
それが世界の 理(ことわり)ぞ知る


どうも皆さん、さんそんです。

今日は、政治というよりは哲学的なことに関して書いていきたいと思います。


皆さんは人は皆平等であると思いますか。

私はそうではないと思っています。

1万円札でお馴染みの福沢諭吉の著書「学問のすゝめ」の冒頭に

『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。』

という、よく人間平等論で出てくるフレーズがあります。人は平等だ!という人ほど、この一文を引用しているように感じています。

しかし、その後に福沢諭吉はこう続けています。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

つまり、「勉強しないから身分に差がでる」ということです。


「学問のすゝめ」の冒頭部分を初めて読んだ時の私の感想は

・人は平等ではない。

・当事者にはそもそも“平等”などなく、あるのは“対等”
・そして、対等になるには少なくとも努力が必要である

小学生のころから野球をしていた自分には、野球を通じて感じていたことをそのまま活字に表したように感じたのを今も覚えています。


ここで、私なりの“平等”“対等”の違いを説明します。

どちらも同じように聞こえると思いますが、私は「第三者」「当事者」かで変わると考えています。


“平等”は当事者以外の第三者が当事者を扱う際に“扱いが等しい”というニュアンスです。

「法の下の平等」や「神の前では全ての人間は平等である」などですね。

一方で“対等”は“当事者間での実力や地位などが等しい”というニュアンスです。
「対等な立場」や「対等な関係」などです。

そして、当たり前ですが自分の言動・行動というものは“自分が当事者”ですので、そこに平等などなく、対等しか無い。そして、対等とは自らが勝ち取る以外に得る方法はない。


というのが私の考えです。


話を戻しましょう。


私がそういう考えなものですから、こんなこと言うと、人権派()の方からお叱りを受けたり、「お前は第98代唯一皇帝か!」というツッコミが入りそうですが、権利も地位も財産も能力も同じ人など存在しないんですよ。

才能のある・なしなどは典型でしょう。

才能までいかずとも、足の速さだったり、歌の上手さだったり、見た目の良し悪しだったり、持病のあるなしや体質、親や家の貧富など、生まれた時から人は何もかも他人とは違います。

故に、人は平等ではない。そう考えるのです。


そして、

人が平等でないのですから“命”もまた平等ではありません。

ここでは“平等”という単語を用いてるので第三者から見た命の天秤の例を挙げていきましょう。


例えば、私と総理大臣ではどちらのほうが命が重いでしょうか。

恐らく多くの方が総理大臣とお答えになるでしょう。私は死んでも国家運営に支障をきたすことはありませんが、総理大臣ではそうはいきません。


しかし、私の家族に同じ質問をするとどうなるでしょうか。

恐らくを選んでくれるでしょう。親不孝息子ではありますが、別段、親からゴミみたいな扱いを受けたことはありませんので、そう言ってもらえる確信はあります。


同じだと応える方もいるでしょう。

しかし、人によってこうも命の価値とは上がり下がりするものなのです。まるで市場原理ですね(笑)

果たして、こんな代物が“平等”と言えるのか。私は言えないと考えます。


差別区別といったものも同じでしょう。

人が平等でないのですから、無くなるはずがありません。


もちろん、差別などを助長している訳ではありません。しかし、人類史上、差別や区別が根絶されたことなどただの一度もないのです。それが現実です。


そもそも、私は

「人は他人との違いを認知することで自我を保っている」

という持論があります。


顔の違い、背丈の違い、体つき、髪の毛、喋り方、性格、それら他人との“違い”を認識することで「自分が自分である」という論理を人は生まれながらに行っていると考えています。

逆を言えば、皆同じだと「自分」という存在を保てなくなるということです。


違いを認識するためにはどうするのか。

それが差別であり区別です。

ですので、人間というものは自然と差別したり区別する生き物なのです。


典型例ですが、在日朝鮮人に対する所謂「ヘイトスピーチ」に関するやりとりなど見てると滑稽ですよね。


特権を謳歌する在日朝鮮人に対して在○会などが差別・区別の言動を取る。

その在特○に対して「レイシスト」と叫んでし○き隊が差別・区別する。

そして、そんな○特会やしば○隊を見て我々一般人は「あんな人達とは違う」と差別・区別する。


皆それぞれ差別や区別をしているんですよね(笑)


結局、何が言いたかったかと言うと

「平等に扱わないのはおかしい」
という理屈がおかしいということです。

平等に扱って欲しいのであれば、扱ってもらえるだけの対等な所まで登れ、ということです。



ちょっと先日、友人と哲学論議で盛り上がったり、録画した朝生を見て反吐が出そうになったり、「人の命は地球より重い」とかラディカルフェミニストの「女性の人権ガー」などをここ数日で立て続けに目にしたので、すこし憂さ晴らしも兼ねて書かせていただきました。


自分の哲学的なコトですので、異論・反論おおいにけっこうです。
是非、コメント欄で議論しましょう!(むしろそっちのほうが楽しみ)


拙い文章をご精読いただきありがとうございました!



平成28年2月10日

さんそん


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